紅い月が、浮かんでいた。
今にも血が滴り落ちそうな紅い裂け目は、空が傷を負ったように見える。
魔性を帯びたかのようなソレは、酷く不気味だった。
理安は停止した思考を必死に動かそうとした。
しかし、脳が理解を拒否する。
受け入れられない。彼女の常識に入らない。
ただ、口は自由だった。

「何故……」

声が震えて擦れている。
唇を一度強く噛み、今度は震えないようにと叱咤してから再び口を開く。
同時に激しいものが堰を切ったように胸の奥から溢れ出してきた。

「何故、殺す必要がある!?」

悲痛な叫び声は、ただ虚しく闇に閉ざされた空間に響いた。





理安は少し機嫌が悪そうだった。
いつもの生まれたばかりの朝日のようなキラキラとした笑顔がない。

「どうした、ぼうず?」

パフェをつつきながら俊之介は向かいに座る相手に問う。
西洋の料理やお菓子は家庭ではあまり食べる機会がないが、それを扱う店は最近増えている。
今回の甘味巡りはそういう所にしよう、ということになった。
約束したときのとても楽しみにしているのが分かりすぎてしまうほどの理安の様子に、俊之介はガラにもなく、こいつが喜ぶなら休日は仕事ではなく一緒に甘味を食べに行くことに費やすか、などとさえ考えてしまった。
それが、今日会った理安は楽しそうではない。
これだけ美味しい甘い物を前にしてその様子は徒事ではない、と同じ甘党の俊之介は思う。

「いや…夢見が悪くて…」
「相変わらずガキだな。ぼうずらしいけどな」

「だ、だって……」

呆れと揶揄の籠められた言葉に対し、理安はデラックス生クリームフルーツパフェをスプーンでかき混ぜ始めた。
生クリームの白とバニラの生成り色がマーブルを描き始め、ついには混ざり合うまで混ぜ続けた。
抗議が彼女の手に表れているようだった。

「世の中から甘い物が消えていく夢だぞ!?何か、貴族じゃないと食べちゃいけないって取り上げられていくんだ…!」

辛そうな叫びとは裏腹に、言っていることは甚だ幼稚だ。
まだ会って一ヶ月くらいだが、理安は刀を手放すと、どうも年齢以上に幼い節があると分かる。
否、これが本来の姿なのかもしれない。
刀に関しては無理矢理自分を理論的な考えに染め上げ、悧巧ぶっている気がする。それを本人は意識していないだろうが、無理している気がして痛ましい。
それでもその実力は本物だ。弟のような存在の持つ、その力量と可能性が俊之介には楽しみなのだ。
だから、本気で呆れない。現実はこうして中身が子供でも。
いや、だからこそ、と言うべきか。そのギャップに飽きれないのだから。

「氷水なら貴族並みの待遇だろうが。だから甘い物はてめェの前から消えやしないぜ?」
「父上は貴族みたいな扱いではないぞ。剣神は称号であって特権階級ではない」
「そうかよ。でも可愛い息子のために甘い物持ってきてくれそうだけどな」

言いながら、何故夢の話に真面目に答えているのだろう、と思う。そんなくだらない現状に気付いてしまった。

「そ、そうだろうか…」
「そうだ。そもそも夢であって現実じゃねェんだから真剣に考えんな」
「…そう、だな」

一瞬寂しげに微笑み、理安はぐちゃぐちゃになったパフェを口に運ぶ。
見掛けはどうあれ味は変わらないため、蕩けるような笑顔が顔に広がっていった。

「美味いか?」
「うん、とてもおいしい!」
「そりゃ良かったな」

俊之介は理安の表情を注意深く窺いながら言う。
間違いではない。さっき、理安は寂しげな笑顔を見せた。
初対面のときにも見せられたその表情は、俊之介の心を酷く揺さぶってくる。
理安の無防備な弱点を突いてしまった罪悪感と共に。
本当はもっと嫌な夢を見たのかも知れねェな、と俊之介は鋭すぎる眼差しの中にそんな考えを閉じ込めた。





俊之介と別れた後、理安は帰宅する前に寄り道をすることにした。
ちょうど帰り道に露店が多く出ていたのだ。
国内の各地からこの都に集まった様々な物は、見るだけで愉快な気分にさせてくれる。
理安は好奇心を隠さずあちらこちらの露店を覗いた。
見たこともないような物が溢れ、夢の世界に迷い込んでしまった気さえする。
ふと、草で編んだ小物を売る店の前で立ち止まる。
店主の男は三十代に見える。
彼の前に並べられた素朴だが味のある可愛い小物を見て、これらをこの男が編んだのか、と思うと不思議な気分だった。

「何か気に入ったのがありやすかい?」

男が声をかけてきた。
思っていたよりも若い声だった。もしかしたら二十代かもしれない。
しかし落ち着いた雰囲気はそうは思えず、年齢不詳というのがぴったりだ、と妙なところで理安は感心する。

「あ、えっと…」

返答に困って、もう一度筵に並べられた商品を見る。
まさか、今思っていたことを言うわけにはいかない。失礼すぎるだろう。
うろうろと視線を動かしていると、一つ、目に付くものがあった。
異なる色合いの草で丁寧に大きな模様が編まれたコースターだった。

「この模様、何か不思議だ…」

幾何学的模様など様々にありすぎて、それほど深く引き込まれない。
家紋などの絵柄は、感心はするが気をとられはしない。
なのに、何故かそれは心に訴えかけてきた。
理安の呟きに男は気配で笑う。

「あっしはまだ都に着いたばかりの新参者でね。お坊ちゃんが初めての客なんすよ。記念にそれ、差し上げやしょう」
「え!し、しかし…」

思いがけない申し出に理安は狼狽える。
まさか購買意欲もなくただ通りがかって見ていただけで貰うなんて、と良心的に許せないのだ。

「気にしないで下せえ。あっしの自己満足ですから」
「そ、そうか…?」

なら、と理安はありがたくそれを貰うことにする。
今度はちゃんと客として来る、と一方的に口約束して理安はコースターを受け取り、再び帰路に着く。
歩きながら、貰ったコースターの模様を見る。
特に変哲もないのだが、真ん中に見ようによっては刀が刺さっているように見える形がある。
そして、それを囲む四方の絶妙な模様。曲線と直線の融合した、何も象徴しない、何にも捉われていない形。
どこか懐かしい気さえした。
早速父上達に見せよう、と理安は足早になった。





今夜も、妖刀の気配を感じる。
春だから、というわけでもないだろうが、まるで浮かれているかのように今月の妖刀出現率は高い。
去年まででこれほど妖刀が現れたことはなかった気がする。
ほとんど毎日のように夜に出掛けているため、最近では昼が眠くて仕方ない。
これではまるで千代のようだな、と昼夜逆転した生活に近い幼馴染を思い出し、理安は思わず笑みが零れた。
しかし夜の闇に閉ざされた街中では、彼女のそんな様子を見る者はいない。
小路を駆け抜けていけば、夜開く店から人の声が漏れるのを耳が拾う。
対照的に人々の家はもう寝静まっている。
夜風はまだひやりと冷たい。冬のような身を切る鋭さはなくとも、油断すればその冷たさに捕らえられてしまいそうだ。
その夜風に乗って、唸り声が聞こえた。
理安は温かな笑みを引っ込めると、すぐにその発生源へと向かう。
前方には生々しい血の滴り落ちそうな紅い月。
理安がちらりと思ったのは俊之介のことだった。
今日、彼は非番で出てこない。
つまり、誰かが通報しても、彼と会えない。共に戦えない。
何を考えているのだ、と自分を戒める。
昼に会ったばかりだというのに。
ただ、彼の剣技を見たいと強く欲する自分を同時に自覚する。
理由は分からない。けれど、そんなことは大したことではないのだ。
無性に俊之介の荒く力強い剣技が、刀が見たい。
どうしようもないほど惹かれている。
今までに見たこともなかったから。自分には決してできないから。
音を立てずに、理安は足を止めた。
海辺へと下っていく小路。
そこに、敵はいた。
理安は夜の静寂を壊したくないかのように、静かに無幻と星霜を抜く。
前に立つ男は、獣のように低く獰猛に唸り理安を睨みつけている。
しかし、襲ってこない。

「……?」

訝しみ、理安は注意深く様子を窺う。
男の瞳。
そこに宿るのは殺意でも狂気でもなく―――――苦悩、恐怖。
理安は強い違和感を覚えた。
おかしい。
そもそも妖刀は、心に傷を抱え、どうしようもない恨みや殺意を持つ者が持って共鳴することで初めてその力を引き出す。そしてその瞬間、同時に妖刀は強い気配を放つ。
この男の刀は確かに妖刀の気配を持つ。なのに、この男はまるで最初から殺意などないかのようだ。

「今、助ける」

小声で告げ、理安は男に向かって駆ける。
突如、彼女は大きく跳んだ。
進行方向とは間逆の、後ろへ。

「何をする!?」

理安の足元に、三本のクナイが刺さっていた。
牽制だろうが、その正確に狙う技能から相手の実力が見える。
理安が見上げれば、一人の男と、一人の女が、屋根の上に立っていた。
先ほどまで全く影も形も、気配さえなかったのに。

「あら、坊や。なかなか良い反射神経ね」

女が言う。
着物を程よく着崩した姿は、色香が辺りに漂いそうなほど妖艶だった。
女の理安でさえ一瞬ドキリとさせられる。
声も深紅のビロードを彷彿とさせるような、深く滑らかなものだった。
包まれてしまえば、さぞ夢見心地だろう。
しかし、それよりも。
理安は女の横にいる男を睨む。
冷たい無表情な目で理安を見ている。
理安は堪らず視線を逸らし、妖刀を持つ男に歩きかけ。
再び、足を止める。

「動いちゃダメって、言ってるつもりなんだけど。坊や、分かってるかな?」

まさに理安の足の着地しようとした場所にクナイ。
理安は女を見る。

「何故動いてはいけないんだ?」
「お前が狩人だからだ」

答えたのは男の方だった。
初めて口を開いた男の声は、低いバスだった。闇の世界では、驚くほどよく通る。
男は深緑の着物の裾をはためかし、妖刀を持つ男との間に、遮るように静かに下りてきた。
女も続く。
目の前に立たれると、理安よりも二人とも背が高い。それなのに、その動作は軽く俊敏で気配が全くない。
近くで見ると、男は三十代だろうか、女にいたってはまだ二十代に見える。

「狩人…?」
「そう」

鸚鵡返しの理安の言葉に、男は満足そうに頷く。
口元に僅かな笑みが浮かぶが、目は氷よりも冷たい。
そして、必要以上に強く理安を見るものだから、理安は不快で仕方ない。
まるで理安だけに特別な恨みがあるかのようだ。

「初めてお目にかかる、妖の刀の狩人よ。会いたかった」

男の後ろで唸り声が大きくなった。
苦悩に満ちたその声音に理安はきゅっと胸の奥が強く掴まれた気がして、苦しくなる。
しかし、男の反応は短かった。

「五月蝿い」

理安に対する、偽の温かさの篭もった声から一変した無表情な声で男は後ろを向き。
腰に差していた刀を抜き、斬り捨てた。

「―――――!!」

静止する暇もなかった。
一連の動きに組み込まれていたかのように、唸って苦しんでいた男は絶命していた。それが定まった事象であるかのように、あっさりと。
刀に付いた血を軽く振り払ってしまいながら男はこちらに向き直る。
理安は瞠目したままだった。
分かっている。
分かってはいるが――――――理解できない。
脳が拒む。理解を、受容を、拒む。
だからかもしれない。
停止した思考を動かそうとして、動いたのが口だったのは。
口はその時、心と直結していた。
酸素が足りないかのように数度口を開閉し。

「………、何故………」

やっと絞り出した声は掠れ、耳障りだった。
震えている。声だけじゃなく、心が、体が。
唇を噛み締め、震える自分を叱咤し、再度口を開く。

「何故、殺す必要がある!?」

張りのある本来の彼女の声は、しかし、夜空に虚しく響くだけだった。

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