「お帰り、理安ちゃーん!!」

玄関戸を開けるなり、戒が理安に飛び掛る勢いで走り寄ってきた。

「じゃ、理安。また後でね」
「千代、そろそろ寝たほうが良いぞ?」

戒の反応に慣れている千代がフラフラと去ろうとするのを理安は心配して声をかける。
千代はどこか眠たげな顔で、そうねぇ、とのんびり呟く。

「2日後くらいに一気に寝るわ。24時間くらい」
「2日後は平日だぞ、千代。学校は休んではダメだからな」
「はいはい」
「千代ちゃん、お疲れ〜」

戒も声をかける。
理安は後ろに立つ光に目配せした。
千代に付いていってくれ、という意思を察し、光は千代の後に続いていった。

「叔父上、今日はあんこ亭に行ってきたんだ」

戒が何かを言う前に理安は言った。
そうでないと、戒は延々と理安を心配したことを語り続けるのを長年の経験で知っている。

「あんこ亭の白玉餡蜜はおいしいな。叔父上が甘い物を嫌いじゃなければ一緒に行きたいんだけれどな」
「理安ちゃんのためならどこでも行くよ!」
「いや、叔父上に無理に嫌なものを食べさせたくはない」

下駄を脱ぎ、理安は家に上がった。ゆっくりと部屋に向かう。

「理安ちゃんのその心遣いだけでオレは本当に嬉しいよ。でも理安ちゃん、あんこ亭だけでこんなに帰るのが遅かったのかい?」

よく食べて帰るから、何かあったことが悟られているらしい。
理安は内心で戒に謝りつつ、話した。

「店の外で妖刀を振り回した女性と出くわした。で、その場に偶然やって来た俊之介さんからこれの、」

理安は妖刀を戒に渡す。

「処理を頼まれた」
「……火瀬のヤロウ、また理安ちゃんと合ったのか。ちっ」

理安は再び心の中で戒に謝る。
嘘を吐いたこと、そしてこれからはその気に入らない人と一緒に甘味処巡りをする約束をしていることを黙っていることに対して。
それにしても、と理安は思う。
俊之介と会ったのは確かに今日で3度目だ。
なのに、どうしてこんなに心を許しているのだろう?
妖刀退治の仲間意識か。
なんとなく気が合うからか。
それとも、―――――――怜真と全く正反対のような人だからか。
性格が、ではない。
彼の剣技が、である。

「……理安ちゃん、どうかした?ボーっとして」

戒が顔を覗き込んできた。

「はっ!もしや、体調が悪いのかい?それとも火瀬のヤロウに何か言われたりしたのかい!?」
「あ、いや…すまない、考え事を……」
「そう?それなら良いけどね。でも理安ちゃん、本当に体は大切にするんだよ?」
「ありがとう、叔父上。でも大丈夫だから」

戒に微笑んで理安は部屋の戸を開ける。
ふわり、と甘い香りが鼻腔をくすぐった。七枝が香を焚いたのだろう。
せめて香りくらいは女の子らしく、とよく七枝は香を焚いてくれるのだ。

「じゃあ理安ちゃん、また後でね」

戒は流石に部屋に居座る気はないらしく、戸に手をかけて言う。

「ああ」
「……そうそう、兄貴がいつでも良いから部屋に来いって行ってたよ。じゃあね、理安ちゃん」
「え゛」

理安の前で戸は閉められた。
一つ溜息を吐き、畳の上に理安は座り込む。
怜真が理安を部屋に呼び出す、というのは二人だけで話すときだ。
別に、怖いというわけではない。
しかし、俊之介と食べ歩きの約束をしたことを告げなければならない今、なんとなく後ろめたい感じがする。
理安は二本の愛刀―――――無幻と星霜を手に取り、抱え込む。
人を斬る刀。凶器。
でも、理安が生まれたときから傍にあった存在。
現在小桜と呼ぶ刀、元の名を桜雨と呼んだ刀を持ったとき、ひどく懐かしさを覚えたのを今も鮮明に覚えている。
刀を手に取ると、何故か落ち着く。
理安はゆっくりと目を閉じた。
心のどこかが落ち着くと同時に、研ぎ澄まされていく気がした。



理安は、自分の父親が怜真であることに誇りがある。
剣神だからではない。
ただ、氷水怜真という父親が大好きで大切で尊敬しているのだ。
幼いときから人間らしからぬ人間だった怜真の数少ない人間らしさが、娘の自分を愛するという一面であることも知っている。
だから、理安は何よりも誰よりも好きなのが怜真だと断言できる。
…………怜真の周囲の人に言わせれば、怜真は娘を愛するどころか溺愛しまくりで、はっきりいって理安以外に世の中で大切なものなど何もなく、俗世への唯一の執着が理安だ、と断言するが、理安は流石にそこまで自覚してはいない。
とにかく、怜真と共にいる時間は幸せなはず、だが。
生まれて初めて怜真の前で理安は緊張した。
悪戯をして叱られるのでは、と幼いとき思ったこともあったが、そのような緊張とは異なる。
怯えも恐怖もない、ただ緊張するという感覚。
理安は無意識に俯いていた顔を上げ、怜真を見た。
必要最低限のもの以外は見当たらない部屋の、主。
理安に負けず劣らず長く艶やかな黒髪は、今は後ろで緩く束ねられている。
切れ長の目は、理安を真っ直ぐ見ている。
透明な、それでいて温かい視線。
理安にだけ、特別に向けられるものだ。
向き合って座る二人の間の距離は1メートルに満たない。
だが、理安にはその距離がひどく遠く感じられた。

「…父上、何の用だろうか?」

沈黙に耐え切れず、理安は切りだす。

「そう構えるのはやめなさい、理安」

フ…、と口元に笑みを浮かべ怜真は言う。

「お前が私に用があるのではないか?」

緊張を解くように言った直後に核心を突く。
理安は一瞬顔を歪めた。

「光から聞いたのか?」
「光は何も話してはいない。正確に言うと、誰一人として私に何も告げてはいない」
「………」
「ただ、帰ってきたときの光と、何よりお前の気配がいつもとかなり異なっていた。だから、戒が駆けつける前に呼ぶよう言ったのだ」

敵わない、と理安は思った。
もちろん、始めから勝負する気などないが。
しかし、怜真は理安がこの先どれ程強くなり、成長しても決して追いつけない、手の届くことさえ叶わない次元に存在している気がする。
そもそも、門をくぐって玄関に着くまでの間にそのように判断、実行するのが有り得ないと言いたい。
しかし、有り得ないことを目の前の父親はやってのけることを、この世で一番理安が知っている。

「何があった?」
「……あんこ亭に寄ったとき、俊之介さんに会った」

自分から言おうと思っていたのに、結局怜真に促されて言ってしまっている。そんな自分に、理安は内心自嘲する。

「俊之介さんも甘い物好きらしく、一人で食べ歩いているそうだ。そこで、千代をわざわざ付き合わせるのも悪いから、私と俊之介さんでこれから食べ歩こうと約束した」
「そうか」

怜真の反応がひどく短いものであることに理安は戸惑う。
確かに、怜真はいつも無駄な言葉はほとんど発さない。
でも、これでは許されたのか否か分からない。
不安げに理安は怜真の顔を窺う。
怜真の目許は和らいでいた。

「行ってきなさい、理安。戒には私から言っておこう」

「ありがとう父上!!」

花が咲いたような笑顔を理安は浮かべた。
最も気がかりだった「怜真の許しを得る」ことが解決し、晴れやかな気分になっている。

「そうだ、このことを心配していた千代や光に言ってこなくては。父上、本当にありがとう!」

喜色満面で体重を感じさせないほど軽やかに立ち上がり、理安は部屋を出て行った。
彼女は気付かなかった。
怜真が、複雑な表情をほんの一瞬、垣間見せたことに。
理安が背を向けてから見せたのだから、当然かもしれないが。




世界は静まりかえっている。
怜真は一人、縁側に座していた。
空には満ちつつある月が浮かんでいる。
ぎ、と床の軋む音が静寂を破いた。

「よう、兄貴。一人で月見か?」

戒である。
当然、家の敷地内では全ての気配を把握できる怜真は気付いていた。

「そんなところだ」

変わらず無表情のまま答える。
結われていない、下ろされた髪は、少し肌寒い夜風を受けてさらさらと流れている。

「そうかい、じゃあオレも月見させてもらうか。酒も持ってきたんだぜ」

ほらよ、と戒は酒器を見せる。

「たまには兄弟水入らずってのも良いだろ?」

この兄弟が二人でじっくり話す時間は確かに少ない。
せいぜい、今宵のように酒を飲むときくらいだろうか。
怜真は傍らにおいていた刀をどけ、戒に場所を作る。
ん、と戒は座りつつ、刀を見て訝しげな表情になる。

「そいつは……親父の最高傑作か。珍しいな、兄貴がそれを持っているなんて」

理安の持つ刀は全て戒の作品だが、怜真のは父親の氷水龍漸によるものである。
そして、その中で最も優れた刀を、普段は出すことさえない刀を怜真は傍らに置いていた。
戒が驚くのも当然だろう。

「少し、な……」

怜真なりの理由があるようだ。
戒は双子と言えど理解を超越した兄をちらりと見、それから空を見上げる。

「良い月だねぇ。春の月ってのもなかなかだ」
「ああ」
「……理安ちゃんも、もう16だな」

戒は懐かしさの込もった声で言う。

「初めて会ったとき、えらく真っ直ぐで澄んだ目を持つ子供だとは思ったが、相変わらずあの子の持つ目の光は衰えねぇ」
「理安には、迷いがないからな」

盃に酒を満たし、怜真はそれを手に取る。
酒は、濁り酒だ。

「贔屓なしに見ても良い子に育てたな。流石は兄貴だ」
「私の功績ではない。あの子の気質だ」
「そんなことねぇよ。子供ってのは親を見て育つからな。だが、……そろそろ女の子に戻すべきじゃねぇかい?」

会は強い眼差しで怜真を見た。
怜真は静かに庭を見つめている。
いや、その目にはおそらく庭は映っていないだろう。
彼の目に映るのは、一人娘以外は在りえない。
戒以上に理安を愛しているのだから。
怜真は徐に口を開く。

「……分かっている。ただ、理安は幼少期から親の不始末のために性を捨ててきた。まだそれが終わっていない今、女に戻るのはあの子自身が許さんだろう」

理安が時折見せる、強い覚悟の籠められた表情を戒は思い出す。
苦笑と共に溜息が思わず漏れる。

「誰に似たんだか、頑固なところがあるからなぁ、理安ちゃん」
「――――――戒」

怜真は静かに、しかし誤魔化しなど決して許さない力をもって問う。

「それだけではないのだろう?」
「……兄貴には隠し事はできねぇなあ」

見抜かれたことを嬉しそうに戒は言う。

「火瀬、俊之介のことだ」
「やはり、気にしていたか」

戒は理安を溺愛するが故に、彼女の周囲には異様に注意しているのだ。

「兄貴があんな短時間しか会わないで人を認めるのは極稀だからな。……どうして認めたんだ?」

怜真は戒をちらりと見遣る。

「異論があるか?」
「いや…オレは兄貴の決定には絶対に従うさ。ただ、さっきも言った通り、珍しいことだから理由が知りたい」
「……彼の目を見てどう思った?」

突然の問いに、戒は夜空を見上げ考え込む。
俊之介への罵詈雑言ならいくらでも浮かぶのだが。

「かなり目付きが悪いっつうか……いや、眼光が鋭すぎるのか。だからそう見えちまう」
「あの目は確固たる目的、そして自負のある目だ。あれほど強いものに出会ったことはほとんどない」

戒は怜真の言葉を聞き、頷く。

「なるほどね……清に似た光だ」

だが、と怜真は続ける。

「彼は清と違い、純粋に力を求めているわけではない。先日、私が彼と手合わせしたのを知っているな?」
「ああ。双頭の剣神、光迅の怜真に開口一番手合わせを願った奴は久し振りだな」
「……その後、彼は私に頼んだ。手ほどきをしてくれ、と。彼は今まで我流で強くなったらしい。だが、今より強くなるには私の力が必要だという」

戒は空になった盃に酒をなみなみと注ぎつつ、浅く頷いた。

「そうだろうな。我流であのレベルってのはむしろ天才的だ」
「実際、彼は天才だ。センスだけなら、そう、理安とほぼ同等だろう」

うえぇっ、と戒は堪らず声を漏らす。

「あの理安ちゃんと、だって!?」
「そうだ。ただ、自分と同レベルの強さを持つものがいなくなり、実力を伸ばせなくなっていただけだ」
「……兄貴がそこまで言うなら、悔しいがあいつは天才か」

ちっ、と舌打ちしつつも戒は渋々認める。

「彼が今まで強くなろうとしてきた理由は分からない。しかし、今、強くなりたがる理由は分かっている。彼は私に『あいつに怪我をさせた自分が絶対に許せない』と言った」

戒はますます渋面を濃くする。

「理安ちゃんのことか」
「それしかあるまい」

おや、と戒は思う。
今の怜真の返答、その中に僅かだが怜真の本音が混ざっていた気がする。
『それ―――理安―――以外の理由なら、許さない』というような意思がふと感じられた。
どうしたのだろうか。怜真は何故そこまで俊之介を厳しく評価しようとするのだろうか。

「妖刀は特殊だ」

怜真の声で、戒はそのもやもやとした疑問を押し隠す。

「理安と妖刀の戦いを見て、そして何より庇われ怪我をさせたことで、彼の向上心に火が点いたようだ」
「悔しいが……」

躊躇うように、言い辛そうに、しかし戒は言う。

「あのヤロウは、本物だな」

そんな戒の様子を見て怜真は口元で静かに微笑む。

「納得したか?」
「ああ…、嫌になるほどすっきり納得した」

呆けたように月を見上げ、戒は言った。
そうして、兄弟二人の時間は緩やかに流れていった。



その夜、何故怜真が月見に興じていたのか。
何故、俊之介を厳しく評価するのか。
戒がその理由を知ったのは翌日であった。
その時、戒は俊之介に敵意を持つと同時に、兄怜真の人間らしさに少し驚いた。
怜真でさえ、理安のことになると、心を静めるために一晩かかり、理安と共に食べ歩く俊之介には、普段と異なる厳しい目になってしまうことに。

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