空にはぽっかりと穴が開いたかのような、丸い月が浮かんでいる。今宵は満月だ。
警察隊第11班副班長、火瀬俊之介は班の部署にいた。
先日、5班の末席からこの班の副班長に大抜擢されたのだ。実力は十分だが、いかんせん若過ぎではある。普通は四十代以上だが、彼はまだ二十代半ばなのだ。
俊之介は空を見上げた。
センチメンタルとは縁のない彼だが、今日の月は無性に眺めたくなるのだ。
そこに、一人の警察隊員が駆け込んできた。

「花遊亭で一人の男が刀を振り回しているそうです!!」

それは、出動の合図だった。
俊之介は鋭すぎる目を細めた。



警察隊は各都市にあるが、本部はやはり首都にある。
そして、首都ならではの班がいくつかあるが、第11班はその一つである。
その職務は夜間を主とする警備。
本来は他班の市中警備職務から敢えて夜間専門を作ったのは、首都の治安の悪さの表れと言えるだろう。
しかし、その第11班こそ天職ではないか、と俊之介は思う。
彼には好戦的過ぎる一面があるのだ。
気の早い桜の蕾が綻び始める三月、僅かに肌寒い夜気の中を俊之介は花遊亭に向かい先頭を切って走る。
と、道の角で見知った顔を見つけた。

「周平、何してやがる?」

周平と呼ばれた男はのんびりと俊之介の方を向く。
異様に黒々とした厚みのある髪、紫色のレンズのサングラス、気怠い雰囲気。
年は今年で四十になる。

「おう、副班長。職務熱心だねぇ」

暢気に言う周平自身、第11班の班員である。
ただ、非常に職務不熱心なのだ。

「斬れれば良いからな」

警察隊の制服である黒を基調とした洋服、その腰に差した刀をちらりと示して俊之介は続ける。

「ちょうど良い。お前も来やがれ。花遊亭で刀を振り回すアホがいるらしい」
「え、いやちょっと……」

周平は目に見えて狼狽えた。
それだけ仕事が嫌なのだろうか。これでも周平の腕は相当なもので、俊之介とて楽には勝てないほどだ。
その周平が仕事を真面目にやらないのはいつものことではある、が。
俊之介はふとした違和感を覚えた。
それは、予感に近いものだったかもしれない。
ちっ、と軽く舌打ちすると、俊之介は一目散に花遊亭へと向かった。

「あ、副班長――――!?」

後ろから慌てる周平の声がしたが、その声は俊之介の耳には届かなかった。




息を全くきらせることなく俊之介が花遊亭の入口に着くと、その静かな気品のある店の前で困り果てた顔の女将や従業員たちがいた。

「……おい、どこの部屋だ?」

単刀直入に問い掛けると、まだ若い女将ははっとしたように俊之介を見る。
制服を見て警察隊だと思い至ったのだろう、震える指を奥に向けた。

「い、一番奥のお座敷でございます……。あの、他の方は……?」

一人で来た俊之介に不安そうな視線を向け、女将が問うてきた。

「後から来る。先にあがらせてもらうぜ」

素っ気無く答え、一歩靴を踏み入れる。ふと、俊之介は振り返った。

「他の客を避難させとけ」

その鋭すぎる眼差しに怯えるかのようにビクリと体を一瞬震わせてから女将は頷く。
それを確認してから、俊之介は土足のまま進んだ。
花遊亭は高級な飲み屋、と言えばいいだろうか。料亭とはまた少し違い、個室で主に酒と肴を出す。料理ではなく酒をメインにしているのだ。
俊之介も二度ほど来たことがあるから、奥の座敷は知っている。
とはいってもそこを使ったことはない。奥の座敷は金持ち御用達、という認識である。
奥の座敷を目指す俊之介の耳に、鋭い金属音が届いた。
それは、俊之介のよく知った音だった。
彼は迷わずその音の方へ向かった。
既に襖が大きく開け放されたそこは、奥の座敷に間違いない。
灯りが消され、明かりは開かれた障子の向こう、庭の方から降り注ぐ月の光の粒子のみ。
それは、ある種の幻想的な光景だった。
俊之介は一瞬、それに目を奪われる。
部屋には、三人の人間がいた。
一人は部屋の隅で倒れている。陰になって見づらいが、おそらくそれなりに老年の男だろう。
そして、残る二人は部屋の真ん中で対峙していた。
右手の男は、三十代半ばだろうか。肩を上下させるほど荒々しい呼吸をし、目を血走らせ、血の付いた刀を構えている。どう見ても正気ではない。
対してもう一人、左手にいるのは少年だろうか。とても中性的な存在だった。
長く艶やかな黒髪を頭の上の方で一つに束ねている。紺色の着物を身に纏う少年は、この世のものとは思えないほど美しく、同時に人間らしいものが欠けている気がした。
少年を神秘的に照らす月の光の魔力でそう思えるのかもしれない。
少年は腰に一本の刀を差したまま、右手に刀を一本持って男の刀とぶつけ合っている。
先刻の金属音は、やはり刀同士をぶつけ合うことによるものだったのだろう。
ふと、少年の黒真珠のような漆黒の瞳がこちらに向けられ、時の流れを思い出した。
俊之介が声を掛けるより早く、少年の目は大きく見開かれた。

「何故、警察隊が――――――!?」

しかし少年の続けられるはずだった言葉は、少年に迫った刀に打ち消された。
傍から見ていて、狂気の男も強いが、その少年の方が強いであろうことは分かる。
ただ、男は自身を傷つけてでも迫るが、少年はどうやら男を傷付けたくないようだ。
よって、刀のぶつかり合いとなり、膠着状態に陥っている。

「おいぼうず、退け」

とりあえず、いくら強くても少年は一般人だ。
俊之介が部屋の中に踏み込もうとすると、突然男が庭へ走り出た。

「まずいっ、外に出る!」

男子にしては高めの声をあげ、少年は男を追った。
同時に複数の気配と足音がこちらに近付いてくるのが分かる。他の班員達が来たのだろう。
しかし俊之介は彼らを気にも留めず庭に出た。
少年と男は庭から外へ出てしまっている。
柵を飛び越えると、まさに男が少年に斬りかかろうとしているところだった

「危ねェ!」

少年と男の間に滑り込み、瞬時に刀を抜いて男の一撃を防ぐ。
キィン……、と甲高い音が夜の空間に響き渡った。

「―――――なっ!?」

俊之介は驚きのあまり声を漏らし、左手の刀を見る。
彼の特注の刀が折られていた。
一応警察隊から与えられたものだから、そこらのものよりはるかに良い刀のはずなのに、である。
いったいどんな刀使ってんだ、と男の刀を見る。
しかし、既に第二撃が来ようとしていた。
刀の柄で受けるべく俊之介が構えようとすると、どん、と強く体を後ろに押された。
背後に庇っていたはずの少年が、俊之介の正面に回りこんで体当たりしてきたのだ。

「――――くっ」

少年の顔が歪む。男の第二撃が左肩を掠めたようだ。
尻餅をついた俊之介の上に少年は倒れこむと、すぐに立ち上がり両手に二本の刀を構えなおした。
二刀流である。

「お兄さん、あなたは知らないだろうが、この男の刀は普通の刀では対応できないんだ」

男と刀をぶつけ合い、牽制し合いながら少年は言った。
その動きは速く、狭い室内のために制限されていたことを思い知らされるほど、広い空間に出たことで先程よりも存分に動けているのが見て取れた。

「だから、ここは私に任せて――――――うっ」

左手の刀で男の刀を受け止めた瞬間、少年は刀を左手から落とした。
先程左肩を怪我したせいで、男の力のこもった強い刀を受けきれなかったのだろう。
俊之介は自分の刀を捨てると即座に少年の刀を拾った。
よく手に馴染むその刀は、彼のものより短く、軽い。
左手が痺れるのか、顔を歪めて戦う少年の右腕を掴み、同時に男の刀を左手に持った刀で受け止めるようにして俊之介は二人の間に割り込んだ。

「退いてろ、ぼうず」

有無を言わさず少年を後ろに退けると、俊之介は男の両腕を強引に斬った。

「あがああああああぁぁぁ!!」

耳障りな悲鳴をあげ、男は刀を落とす。
間髪入れずに後ろに回りこんで男の両足の腱を斬る。
男の刀は少年が素早く拾った。

「うるせェ」

なおも絶叫する男の首に俊之介は手刀を叩き込み、気絶させた。
静寂があたりに満ちた。
俊之介は少年に歩み寄ると刀を返した。

「良い刀だな」

褒めると、少年は嬉しそうな笑顔を見せた。

「ありがとう、お兄さん。ところで、どうしてあの男の体を斬りつけなかったんだ?腕を斬るより簡単なのに」
「そりゃぼうず、てめェがそうしたかったからだ」

胸の内ポケットからタバコを取り出して銜え、ライターで火を点ける。
このライターは外国のもので、以前の班の仕事の関係で入手したものだ。
俊之介の動作を魅入ったように見ていた少年は、え、と小さく呟く。

「さっきからひたすら腕を斬る機会を狙ってやがっただろ?」
「あ、ああ、そうだが……。よく分かったな」
「副班長お疲れ〜」

突然、暢気な声がした。
振り返ると、花遊亭の庭の柵から身を乗り出す周平がいた。

「!鳥居さん!!」

少年が驚いたような声を上げる。
そういえば周平の名字は鳥居だったな、と俊之介は思い出した。

「どうして警察隊がこんなに早く来たんだ?」

責めるように少年は周平に問い掛ける。

「いや、だから他の班員は皆追い出してあげたでしょ」
「でも現に一人来ているじゃないか」
「しょうがなかったんだって、そう怒んないでよ理安ちゃん。あの人はね、新しい副班長の火瀬俊之介。源じいに聞かなかった?」
「……そうか、彼が……」

少年は神妙な表情になって呟いた。

「そ。かなり好戦的で止める間もなく来られたんだよね」
「それは鳥居さんの責任だろう」

「……厳しいね、理安ちゃん」

周平は苦笑した。

「でも、副班長の腕が見れて良かったでしょ?」
「結果論だが、そうだな」
「お前ら、何勝手に人のこと好き勝手に言ってやがるんだ?」

俊之介は柵越しに話す二人に近寄った。

「いや、お兄さんが強いことを褒めていたんだ」
「そうは聞こえなかったがな。それより周平、他の奴等はどこへ追い払った?」

髪を大事そうに撫で、周平は答える。

「港の方で別件が起こったから行かせた。こっちは副班長と俺で十分だって言ってさ」
「……周平、ズレてるぞ」
「えっ!?」

両手を頭に当て、周平は俊之介を窺うように見る。

「も、もしや副班長、知ってた……?」
「それがヅラってことは初対面から、な」

ニィ、と口の片端を吊り上げて笑うと、周平は肩を落とした。
横で理安と呼ばれた少年が笑っている。
ふと理安と目が合うと、理安は笑うのをやめた。

「お兄さんのおかげで助かった。ありがとう」

柔らかい笑顔を浮かべて理安は言った。

「何言ってやがる。てめェが怪我をしたのは俺のせいなんだぜ?怒られることはあっても礼を言われる筋合いはねェな」
「でも、良いんだ」

どこか寂しげな顔を見せて理安は言う。
何か彼なりの理由があるようだ。
深く追及せず、俊之介は周平を見る。

「部屋で倒れていた男はどうした?」
「あ、あの人。まだ生きてたから、女将さんに医者を呼んでもらって、とりあえず応急処置はしておいた」

まだ凹んだ様子で周平は答えた。

「そうか、ではそろそろ人が集まる頃だな」

理安はそう言うと、道から何かを拾い上げた。
それは、俊之介の刀の柄と折れた刃であった。

「あ、おい、それ―――――」
「お兄さん、この刀が折れたのは私のせいだ。だから、知り合いの刀鍛冶に新しく刀を作ってもらうよう手配させてもらう」

有無を言わせぬ声で理安は言った。

「刀ができたら、鳥居さんに伝えてもらうから。場所も彼に訊いてくれ。じゃあ」

立ち去ろうとする理安の背に俊之介は声を掛けた。

「待てよ」

理安が振り返るのを見て、俊之介は再び口を開く。

「俺は火瀬俊之介だ。てめェは?」

理安は淡く微笑んだ。

「氷雨理安だ」
「そうか。またな、理安」

また、と再会を思わせる言葉は意図せず自然に出た。
俊之介にはそれが当然のように思えた。
理安は頷いた。

「ああ、またな、俊之介さん」

俊之介の隣で周平が驚く気配がした。
理安はあっという間に走り去っていった。

「………周平、あのぼうずとはどういう知り合いだ?」

理安の去ったほうを見遣りながら、俊之介は問うた。

「幼馴染の子ってところかねぇ。良い子でしょ?」
「そうだな。それで周平、とりあえずあいつ捕らえとけ」

俊之介は顎で先刻彼が斬った男を示した。それなりに出血しているが、あの程度では人は死なないことを俊之介は経験上知っていた。

「人使い荒いよねぇ、副班長は。若者が動くべきじゃないかい?」

文句を言いながらも柵を乗り越え、きっちり男を縄で縛っている。

「俺の部下だろうが、お前は」

あっさり言ってのけた俊之介の後方から、人の声がしてきた。
女将が呼んだ医者がやって来たのだろう。

「人の来る前に訊いておくが、そいつの持っていた刀は何だ?俺の刀は折るし、どうも特殊なものらしいな」

問う俊之介に向かって、周平は意味ありげに笑む。
サングラスで目はわからないが、きっと計るような目をしているに違いない、と俊之介は思った。

「それは、刀鍛冶に訊くと良いぞ、若者よ」

俊之介は無言で周平を蹴った。

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